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執事のスティーブンスは新しい主人から休暇をもらい、美しい田園の中をかつての女中頭に会うため、ドライブする。スティーブンスの脳裏によみがえるのは、かつての主人ダーリントン卿の時代の思い出だった。
日系イギリス人作家カズオ・イシグロのブッカー賞受賞作。
土屋政雄 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)
派手さはないものの、実にすばらしい作品である。
この作品の特徴をまず上げるなら、やはりその一人称の文体にあるだろう。
一人称という個人の主観が入りまくった文体を用いることで、主観と客観の間で齟齬が生じているのが読んでいて実にすばらしい。殊に後半になって多用する、自分の行動に対する言い訳には読みながら笑ってしまった。
ガス欠を起こしたときの「こうした過ちも当然ありうると強弁することができましょう」とか、「おセンチな恋愛小説」に対する詭弁としか言いようのない弁明とか、どこか笑え実にバカバカしく、そんな言い訳をしがちな主人公がちょっとだけ愛らしく見える。
しかしそういった笑えるシーンはあるものの、本質はどうしようもなく悲しいお話である。
主人公の執事は、執事の「品格」のためにあらゆる感情を押し殺し、立ち居振る舞いを続けようとする。兄の仇ともいえる男の世話をこなしたのは、確かにすばらしいことかもしれないが、そのために、人として大事なことを手放してしまっている。
その代表的なものこそ他ならぬミス・ケントンだろう。執事のスティーブンスが彼女に好意を寄せていることはわかるし、ミス・ケントンもスティーブンスのことが好きだ。いくら鈍感な奴だって、それくらいのことは気付く。
しかし彼はそのミス・ケントンの感情を(恐らくは)気付かなかった振りをして、「品格」ある執事の姿を維持しようと試みる。ミス・ケントンの手紙をチェックするくらい嫉妬しているくせに、どこまでも強情だ。
このシーンを読んで、何度、この男はアホだ、アホだ、と思ったことか。
元々この人は、あくまで自分の見たい風景を見たがっているという気がする。
父の執事としての能力が低下していることを、なかなか認めようとしなかったこともそうだが、最大なのはダーリントン卿に対する評価なのだ。
スティーブンスはダーリントン卿を評価していたが、ダーリントン卿に対する現実の世間の評判はきわめて悪い。それは戦中に起こした卿の行動に原因がある。
で、問題はスティーブンスがそんなダーリントン卿の評価を下げないよう行動できるチャンスがあったという点なのだ。
しかしスティーブンスは、そんな大事な場面でもあくまで人としての感情を押し殺し、執事として「品格」ある行動を取ろうとする。ミスター・スミスが語る「品格」とはちがう「品格」だ。
そしてその行動の結果が、一人の主人の晩年の運命を決定しているとも言えるのだ。
そんな自分の行動をさすがのスティーブンスも悔いている。
ミス・ケントンの最後の言葉の後のスティーブンスの心情は読んでいても切ない。そしてダーリントン卿のことを語る夕暮れのシーンの何と悲しいことだろう。
彼は結局何も選ばず、自分を型にはめて、そこから動こうとはしなかった。そのことに対する苦々しいまでの悔いが溢れている。
だがそこに暗さがないのはラストに前向きな感情がただよっているからだろう。それこそ作者の優しさなのだ。
その麗しい余韻が深く深く胸にしみこみ、読後感が幸福に包まれているように感じられた。
若干まとまりを欠いた感想になったが、ともかく見事な作品だと強弁しよう。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)
その他のブッカー賞受賞作感想
・1983年: J・M・クッツェー『マイケル・K』
・1992年: M・オンダーチェ『イギリス人の患者』
・1998年: イアン・マキューアン『アムステルダム』
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